藤岡の歴史に触れる (富岡製糸場〜絹産業遺産郡)

画像の説明

藤岡市の歴史に触れる

藤岡市で毎月発行されている広報「ふじおか」。
今月号の巻末ページに、養蚕普及人生を掛けた人の特集が組まれました。

群馬県といえば、草津・伊香保・四万・老神などに代表される
温泉地というイメージ、また雪深いというイメージもあるようですね。

しかしながら、先般世界遺産に登録されたことで有名になった『富岡製糸場』がイメージされるようになったかと思います。富岡製糸場は有名なのですが、世界遺産に登録されたのは「富岡製糸場と絹産業遺産群」という名前で、実際には富岡製糸場以外も含みます。それは、伊勢崎市にある「田島弥平旧宅」、下仁田町にある「荒船風穴」、そしてもう一つが藤岡に存在する「高山社跡」です。高山社は私たち藤岡市民にとっては宝物です。

この高山社一期生として卒業後、全国に養蚕を普及し指導した人の名は「下田千勝」。実は、私の先祖で、家系図で見ると私からみて、祖父の祖父の兄弟にあたります!

広報の内容を抜粋しますと、

将来は養蚕指導者に

下田千勝は緑野郡下栗須村の豪農であった下田利八の三男として、明治15年2月14日に生まれました。この頃は養蚕振興が盛んに叫ばれ、桑園が増加する時代でした。そのような環境で育った千勝は、おのずと蚕に関わる将来を考え、養蚕指導者を目指し同30年に高山社伝習所に入りました。

高山社蚕業学校本科第一回卒業そして授業員

明治34年、高山社蚕業学校が創立されました。千勝はさらなる専門知識を得るため本科第一回生として入学、37年に卒業しました。卒業後は、群馬県安中臨予防吏員となりましたが、向学心は衰えず同年10月、早稲田大学に入学しました。翌38年には高山社の授業員資格を得て、秋田県、徳島県に派遣され農村巡回指導をしました。授業員活動をしながら、同39年9月に早稲田大学を卒業しました。同42年には碓氷郡女子講習会において、蚕飼育に関する顕微鏡論を説きました。顕微鏡論は42頁にわたる科学的視点から捉えた直筆の養蚕研究書といえるものです。千勝は近代的な養蚕飼育の在り方を探究していたのです。

清国(現中国)留学生からのお礼

現下田家十八代当主の多門氏宅には、清国からの留学生・舒租謨が、千勝から指導を受けたお礼の言葉をしたためた直筆の額が飾られています。この学生は明治36年養蚕習得のために来日した、東亜学堂(日清蚕業学校)の留学生29名のうちの一人です。この頃、高山社や順気社には清国から留学生が多く来ており、藤岡町としても日清蚕業学校を創設した経緯から、千勝も教師として招かれ対応していたのです。この額は、国際的な養蚕指導活動の貴重な証しといえるでしょう。

茨城県蚕種製造家「筑波館」の後継者

大正5年、千勝は茨城県筑波郡筑波町の「筑波館」館主、倉持甚三郎の長女よしと婿養子縁組、結婚しました。筑波館は茨城県西部で手広く蚕種製造販売業を営み、倉持家は名の知られた資産家でした。千勝はその後継者として迎えられたのです。千勝は明治41年、筑波郡筑波町稚蚕共同飼育所に高山社授業員として派遣されており、そこで甚三郎に見込まれたため、よしと結婚する運びとなったのでした。倉持家に入った千勝は、茨城県西部における養蚕振興に尽力しました。昭和33年に76歳で亡くなりました。


                                             作:下田弘通